人生に意味はあるか

 

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

 

題名どおり「生きる意味」について書かれた本です。
宗教家、作家、哲学家、スピリチュアリスト、精神科医、といった古今東西の著名人の考えを紹介したあとに著者の答えが書かれてます。

著者の答えにはスピリチュアル系が入っているので賛否ありそうですが、他の著名人たちの考えを手軽に知ることができるのは良かったです。元の本を読もうとすると10冊を超えてしまいかなりの手間がかかりそうなので、このようにコンパクトにまとめてくれるのはありがたいと思いました。
文章も難しい言葉が少なくて読みやすいです。生きる意味について考えたいけど、どの本から読んだらいいかわからないという人におすすめできると思います。

ただ、紹介している人の選択には少し疑問がありました。宗教ではキリスト教・仏教といった本家を正面から取り上げていませんし、科学の分野の話題(進化論など)はまったく書かれていません。

著者の答えは本の最後にまとめられています。

一つ、"人生のほんとうの意味と目的"をどこまでも深く探し求め続けるため。最後まで求めぬくため。
二つ、その極限において、究極のリアリティである"いのちのはたらき"に目覚めるため。そして、この私も、ほかならないその"はたらき"がとった一つの形であることに-"いのちが私している"という真理に-目覚めて生きるため。
三つ、今あなたが置かれている状況からの日々の問いかけに応え、あなたの人生に与えられた使命を果たし、"未完のシナリオ"を完成させていくため。

独特なのが2つめの"いのちのはたらき"でしょう。
この世界や宇宙はもともとひとつのエネルギーのようなもので、それがあるときは花の形をあるときは人の形をとり、変化しながらも不滅である、すべてはつながっていてひとつである、といった考え方のようで、体験をとおしてこの真理に目覚めることが必要になるらしいです。

個人的には、著者の話はそれほど突飛なものに感じませんでした。
人の身体はタンパク質や脂質でできていて、それは分子とか原子であって、もともとはパンとかご飯といった食事から作られたものだし、自分が死ねば土に返ってそこから草木になったりするのだから、世界がひとつにつながっているのにエネルギーを持ち出す必要はない気がします。
また、宇宙は無限に近い数も存在するとか、次元は10も20もあるとかいう仮説もあるようなので、原子をさらに分解していけば何かエネルギーのようなものにたどり着く可能性だってありそうです。生きているあいだに証明はできないでしょうけど。

問題は、仮にそのようなものがあったとして、それが生きる意味にどうつながるかという点です。「この「はたらき」そのものをじゅうぶんに生きること」と著者は書いていますが、ちょっと漠然としているし、人生の選択肢で具体的な手助けになるかというとやや疑わしく感じました。

 

○五木寛之

人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。(中略)
人生の目的は、『自分の目的』をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的であると』言ってもいい。私はそう思う。

「人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと思うなら、もうひとつ、『自分でつくる』という道もある。自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人びとがつくった物語を「信じる」という道もある。
<悟り>という物語。<来世>という物語。<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる」


○高森顕徹

「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」


○トルストイ

長い苦悩の末、トルストイの出した結論は、ごく普通の人々、とりわけ農民の生き方に学ぶ、というものでした。素朴な農民は、理性を越えた、より深い非合理的な知識を持ち合わせていると思えたのです。彼らは、理性より信仰に基づいて行動します。トルストイは、農民の信仰の源泉である福音書の教えに回帰し、そこに生きる意味を発見したのです。


○ゲーテ

「ファウスト」は、際限のない欲望追求に紛れ込んだり、卑小な家族愛エゴイズムに閉塞したりしがちな私たち現代人に、「ほんとうの幸福とは何か」「ほんものの満足とはいかなることか」と問いを突きつけてきます。そしてその真の答え(人生の意味)は、自らの欲望の満足へのこだわりを突き抜け、それを手放し、自己を超越した利他の状態に至ったときにはじめて手に入るのでした。


○トマス・ネーゲス

「たとえあなたが偉大な文学作品を書き上げ、今から数千年にわたって読み継がれていくとしても、いつかは、太陽系が冷却し、あるいは、宇宙が徐々に縮小するか崩壊し、その結果、あなたの行った努力の痕跡は、あとかたもなく消え去ってしまうでしょう。いずれにせよ、私たちには、この種の不朽の業績の一端でさえも望むべくもありません」
私はいずれ死ぬ。そして人類そのものも、またこの宇宙全体も、いつしか跡形もなく消え去る。これは免れえない事実です。私たちがそれでも人生の意味を求めていくならば、この事実をふまえた上で求めていくほかないのです。


○渋谷治美

<人はそれぞれ根拠なく生まれ、意義なく死んでいく>

「人生には意味も目的もない、と考えたほうが、自由に、楽に生きていける」と考えている人は、決して少なくないのです。人生に意味も目的もないと考えれば、価値や規範の束縛から解放され、多様な生き方がそのまま認められ肯定される自由な感覚が生まれるからでしょう。人生に意味や目的がなければたしかに「何をやっても無駄」かもしれないが、同時に「何をやっても、どう生きても、許される」という感覚が生まれるのです。


○宮台真司

「生きることに意味(何の為)もクソもないし、まして、生きなきゃいけない理由なんてない。生は端的に無意味」

①「生きる意味」を求めるような生き方から離脱する「第一解脱」を経て、さらに②強度を享受し濃密さ(=セックス、ドラッグ、ダンス、トランスミュージックなどに代表されるような充実した快楽)を獲得できるようになる「第二解脱」をなしとげる必要がある。

現代人の抱える空虚を克服しうるには、観念的な答え、「観念(物語)としての生きる意味」では不十分である。なぜならば、多くの人が抱える空虚感はより身体レベル、実感レベルの「欠落」であって、したがってそれを克服しうるには、やはり、観念ではなく、実感レベル、身体レベルの充実(濃さ)が必要だ


○ニーチェ

自分の存在に「根拠」がないこと、人生にはもともと「意味」などないということ。それがあるように思えていたのは、実はそれを欲しないではいられない人間の「弱さ」のために捏造された虚にすぎなかったということ。まずこのことを率直に認めることから始めよう、とニーチェは言います。

世界の一切はただ、永遠に、意味もなくぐるぐるとまわり続けている。目的も終わりもなく-このように世界をイメージし、それをあるがままに受けとめた上で、私たちはなお、それを肯定することができるだろうか。あなたは果たして、「さぁ何度でも」と自分の人生を引き受けることができるだろうか。

たった一度でもいい、人生の中で心の底から震えるような「至福の瞬間」を味わうことができれば、たとえ一切が無意味なくり返しでしかなかったとしても、私たちはそのすべてを肯定することができるはずだ-これがニーチェの答えです。


○飯田史彦

この世で経験しているすべての苦しみは、前世で残した課題。その課題を克服し、魂が成長するために、私たちはこの世に生まれてきた。そして、この世での生き方次第で来世が決まる。


○キューブラ・ロス

愛する人との別れ、不治の病、子どもの病死や重い障害など・・・死んでしまいたくなるほどつらいそんな時こそ、実は私たちにとってこの上ない「学び」のチャンスである。私たちはそのチャンスを生かせるかどうか、苦しみを成長の機会に転じうるかどうかを「試されている」。そして、その試験に合格したなら、たましいは肉体の束縛から離れて、自由に旅立っていくことができる。


○「チベット死者の書」

死ぬ瞬間、人は、ものすごい強烈な光(クリヤー・ライト)と共に弱い光とも出会います。ここで死者が強烈な光と一体になり、それと融合することに成功すると、「自分の本性」である「全き空」を経験できる。すると、輪廻から解放され、解脱することができるが、それができなければ、人間や犬、馬などのさまざまな動物に生まれ変わって、再びこの世で生きることになる。ここで、できれば本人が解脱できるように、そうでなくとも動物ではなく人間に生まれ変わることができるように、僧は四十九日にわたって『死者の書』を伝え続けるのです。


○玄侑宗久

「私は道場で座禅し、また仏教を学ぶうちに、なにか死によっても途切れない何者かを信じるようになったのである」

「今、私は『途切れない何者かを信じる』という言い方をした。それは、多くの仏教的知識が先端科学の提示する世界と矛盾しないのに対し、このことだけはいわゆる科学がまだ扱いえない領域だから『信じる』としか言えないのである」


○上田紀行

「これまでの時代は、『生きる意味』も既製服のように、決まったものが与えられた時代だった。しかし、これからは違う。ひとりひとりが『生きる意味』を構築していく時代が到来した。『生きる意味』のオーダーメイドの時代なのである」
「オーダーメイド」なのだから、著者が読者に「答え」を示すのも控えられています。


○江原啓之

私たちがいちばん大切にしなければならないことは、『たましいの成長』です。それこそが私たちの『人生の目的』なのです。

「私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の進化・向上をも担っているからです。地球のカルマ(業)は日本のカルマでもあり、それはまた私たち個人のカルマなのです。
私たちはこの中を、地球という星を浄化させるために生きているのです。私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、神の光の粒子となっていくことなのです」


○ニール・ドナルド・ウォルシュ(神との対話)

「あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなた方、そして生きとし生けるものすべての目的は、できる限りの栄光を体験する、ということだ。話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。魂がすることはほかになく、魂が望むこともほかにない。(中略)
最高の秘密は、人生は発見ではなく、創造のプロセスだということだ。あなたがたは自分を発見するのではなく、自分を新たに創造していく。だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい」


○ビクトール・フランクル

「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほとんとは、生きる意味を問い求める必要なんかないのである。
人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」

「私のしたいこと、やりたいことをするのが人生だ」という人生観から、「私のなすべきこと、私がこの世に生まれてきた意味と使命を実現していくのが人生だ」という人生観への、転換。

「どんなときも人生には、意味がある。自分を必要とする"何か"があり、自分を必要とする"誰か"が必ずいて、自分に発見され実現されるのを待っている。そして自分にも、その"何か"や"誰か"のために、できることがあるはずだ」


○著者の答え

ただ無邪気にはしゃぐ、わが子の笑顔。
朝目覚めた時に聞こえる、小鳥のさえずり。
地平線に消え往く夕日の美しさ。
愛する人のやさしさと、あのまなざし。
こんがり焼けた一枚のトーストと一杯のコーヒー・・・。
あぁ、この世界は、ただこのままで、何と完璧なのでしょうか。
このとき、私たちは「生きる意味」を「味わって」いるのです。
「いのちのはたらき」に目覚める瞬間、この「はたらき」は、意味無意味を超えたはたらきであることがわかります。カラン!と音がする。それはただ、それだけのことなのです。意味無意味をふっとばし、すべてを空っぽにする力を、天然自然の「いのちのはたらき」は持っています。私たちは、それに目覚めるのです。
しかし、すべてはこの「はたらき」の顕現である、という真理に目覚めたあと、その目覚めを保ちながら日々を心を込めて生きていくとき、「意味の実感」が戻ってきます。一つ一つの物事が意味に満ち満ちていることを実感するようになるのです。
この世界は、ただこのままで、これほど味わい深いのだ。そのことにこれまで気づけずにきたなんて、なんて愚かなこと!この世界はただこのままで、意味に満ち溢れている!部分に意味があって、全体に意味がないなどということがあるでしょうか。

日々の状況に直面する中で、私たちの心には、いくつもの「断片的な、小さな意味の物語」が蓄積されていきます。そしてそんな無数の「小さな物語」がいつの間にか、「全体としてまとまりのある意味の物語」へと形作られていきます。自分だけの「人生の意味の物語」が紡がれていくのです。
人は、「意味の物語」なしに生きていくことはできません。たしかに「私の人生には、こんな意味がある」と「意味の物語」にこだわりすぎ、縛られてしまっては、不自由な生き方しかできずに窮屈になってしまいます。けれどもやはり、「意味の物語」なしでは人は生きる力を振り絞ることができません。ここが人生の難しいところです。

すべての人には、その人だけの「隠れた使命(ミッション)」が与えられている。人は、自分だけに与えられた「ほんとうの人生=見えないシナリオ」を生き現実化するために、この世に生まれてきた。その「見えないシナリオ」はつねに未完成で、その人に発見され実現されるのを「待っている」。そう思うのです。
「見えないシナリオ」は、絶えず私たちに問い(要請)を発してきています。「私を発見して、最後まで完成させるのだ。おまえは、そのために生まれてきたのだから」と。
そして見事、この任務を果たし終えた時、私たちはすべてのいのちの故郷である「見えない世界」へ帰っていくのです。「見えない世界」からこの世に送られてきて、そこで託された使命を果たし終えたなら、再び「見えない世界」へと帰っていく。私たちはそんな存在なのだ、と私は思っています。